ギャップ萌えという実感から考えたこと

 ギャップ萌えという実感自体、人を要素の集合体として見ていることの証左であるのかもしれない。「あなたのこの要素とあの要素はステレオタイプ上は大きく 距離があるもので、それゆえ印象的だ」という現象がギャップ萌えの構造なら、要素に付随するステレオタイプのズレによる効果的な予想外さを探り続ける終わりの見えない旅に疲れた人々が、ものさしを反転させステレオタイプど真ん中、何のギャップも無いものを最も新鮮なものとして受け入れる。ただギャップの無いものを褒め讃えるのでは芸が無いし、退行っぽいから、ギャップの無さをあれこれ論理で補強して、メタ視点に立ったゼロギャップみたいなものが生まれた。それはそれで崇高な感じがして良いが、どことなくセコい感じはする。今セコい感じと言ったが、さっきまで僕はそこに可能性を感じていた。でもセコい。

 一方で、人を要素の集合体として見ることそのものに疑問を投げかけて、人を要素で判別できないようにする為にあれやこれやと対策を講じていくと、たぶん作品としてとても難解なものになるか、意味が不明になって、成立しない。とても難解で意味が不明であるというのが人間なんだという確かにそれはそうですけれどもという結論は出るが、作品として読んでて楽しくも悲しくもない、意味が分からないというのは、実験的作品以外では辛い。そもそも、「人を要素の集合体としてみることそのものに疑問を投げかけて」いる時点で、「人を要素の集合体として見ていること」を前提としているので、完全な脱却ではない。頭の体操としては良いし、文化が発展していくということはこういう過程を踏まえてこそなんだと思うけれど。否定が目的であって、脱却が目的ではないので別に良いのかもしれないが、否定が目的でなおかつ意味が分からないというのは少し辛いところがある。

 ここまで書いて思ったのは、やはり漫画(とかアニメ)は話の内容そのものよりも話のディティール(個別具体的な要素)に着目される傾向があるのではないか。

 まあそれはおくにして、「ギャップ萌え」を探り続ける終わりの見えない旅というのは多分最前線ではスーパーハイセンス戦争になっていると思うから、なかなか怖いものがある。でも、終わりが見えないだけで、終わりはある。こういうところに相対主義を持ち込むのは御法度。

<2015-漫-6>『HATESATE 2 Transfer Ticket gate』、『HATESATE 5 DOPPEL』

よくヴィレッジヴァンガードで見かける四つ目のウサギ(クマだと思っていた)で有名な、BRIDGE SHIP HOUSEというイラストを中心にあれこれこなすクリエイターが出版している漫画のシリーズなのかな、これは、の『HATESATE』の2号と3号を友人から借り受け読んだ。

まず読む前に注目されるのが、装丁の凝り具合。判や紙の種類、色、インク、綴じ方等に趣向が凝らしてある。ほかのHATESATEがどんな具合かわからないけれどもグレースケールの本を蛍光色の糸で留めている。2号の表紙に、"New Art Comic"という表記があるが、そういった自負のある、非常にお洒落な作りになっている。

シナリオはつまらなくはなく、かといって特別面白いわけでもないのであるが、彼女(もしくは彼?)の作品で最も着目すべきはシナリオではなく、頁の使い方、コミック・ブックとしてのあり方であろう。2号の方は大判で、リニューアル前の『広告』と同じ判。その大きな紙面に、細かく均等にコマを配置したり、始めに全体の構図ありきでコマを配置したり、頁ごとに大きく"BRIDGE SHIP HOUSE"と凝ったロゴを配置したりと、1頁1頁が独立した1枚のイラストレーションとすることを意識している。そのため読み難くもある。5号は横長の判を用いて、ストーリー重視の作品で、読みやすい。ちゃんと正統派マンガもかけますよという感じか。 ともかく、お洒落である。

 

ひょっとして、「船橋」さんなんだろうか?

<2015-漫-5>『おしゃれ手帖』(愛蔵版)

<2015-漫-5>『おしゃれ手帖(愛蔵版)』(長尾謙一郎小学館、2011年~2012年)

愛蔵版ではない『おしゃれ手帖』が出版されたのは2001年から2005年にかけて。

 

しばらく記録をつけていない間にもいくつか漫画をよみ、映画をみた。漫画では、長尾謙一郎の『ギャラクシー銀座』『PUNK』『バンさんと彦一』を読んだ。映画ではジブリをいくつか見た。友人に熱心な長尾ファンがいて、彼女が僕に長尾作品を貸してくれた。

ギャラクシー銀座とPUNKは人の内面世界を探求した作品で、やや難解な作品である。何故難解であるかと問われれば、原因の一つとして、全くの不条理でギャグでしかない要素と、人間の内面を丹念に探求している要素が混ぜられて記述されていることを挙げられるかもしれない。人間の内面を追い続ける複雑な筋書きの中に、意味があるのかないのか殆どわからない不条理が山のように差し込んであり、ただでさえ複雑なテーマであるのに、これらの不条理がさらに読解を難しくしている。

不条理要素のせいで主題の筋道が見え難くなっているとともに、それらの要素が無限に解釈の可能性を生成していて、より手のつけられない雰囲気を醸し出している。

とはいえ、長尾作品の不条理は殆どの場合同時にギャグとしても機能している。ここもまた面白い気がするなあ。(ちょっと疲れたので文章の再構成を投げる)

とはいえ、実際の人生も常に不条理とともにあり、不条理の山の中から真理を見つけ出すという過程を有しているとは言える。ひょっとしてこのような人生の構造を意図的に漫画内に準備したのか…? なんて考えてしまうように、不条理によって解釈の幅をほぼ無限大に広げていく、というのが長尾謙一郎の作風ともいえる。

 

本作『おしゃれ手帖』は、下ネタを中心に不条理なギャグが連続で続き、半ば勢い任せに一話を終わらせてしまう、そういった漫画。序盤は下ネタ下ネタ不条理ギャグ下ネタ…という感じで、ギャグのみで構成された高純度ギャグ漫画という趣であるが、後半からオカルト的な描写や風刺的表現、そして長尾節ともいえる精神の内奥について何かしら示唆を与えているような雰囲気の作品が目立つようになる。それぞれについて単行本が出せそうな程個性豊かなキャラクターが集まり、群像劇の形式で話は進んでゆく。

後半になるにつれ各キャラクターの関係は混迷を極め、暴力的表現が増加し、実存的雰囲気を強め、最後には作者自身が自己言及をしているかのような形で幕を閉じる。

破天荒な物語であったにもかかわらず、読後には長く暗いトンネルを抜けたあとのまぶしさ、安心感、開放感のようなものを得られる。

 

この作品は果たして、一人一人のキャラクターを文脈から捉えて、論理的に、構造的に読めるのだろうか? という疑問を抱いてしまう程に、不条理要素が長尾節とも呼べる理知的要素に勝っていて、また、ストーリーの破天荒っぷりも勢い任せに感じられる。PUNKやギャラクシー銀座から作品の主題に対する作者の並々ならぬ熱意を感じ取っていた私としては、どうにも後からそれらしい感じに無理矢理話を形成したのではないかと失礼にも訝ってしまう作品であった。

しかし、最終話で語られるキーワードである「人生の大根役者」という言葉が、愛蔵版でない方の第一巻の表紙にしっかりと記載されていることを考えると、この作品は、全ての主要キャラクターは文脈を用いて効果的に理解することが可能で、全てが意識的に作り込まれた、長尾謙一郎の一大思想地図であるという可能性も捨て切れない。

 

この漫画を貸してくれた熱心な長尾ファンいわく、作者自身もあまり『おしゃれ手帖』という作品を気に入っていないようだ。『PUNK』を理知的に仕上げ、『バンさんと彦一』をすっきりとしたギャグで書き上げた今の長尾謙一郎にとって、『おしゃれ手帖』はギャグ路線でも、精神的な急進主義路線でもない、それらを両立するでもない、どっち付かずな作品として感じられているのかもしれない。

私は、最終話は何となく理解できた気でいる。最終話では、「本当の自分と、自分のパブリックイメージに大きなずれ」を抱えてしまった人間の悲哀と可笑しさを軽妙に描いている。「人生の大根役者」は単なる思わせぶりの言葉ではない。

作品を読んで頂ければわかるが、この最終話は間違いなく長尾自身が自己に言及している。この線では以下の読解が成り立つ。

「本当の自分と、自分のパブリックイメージに大きなずれ」を抱えた人間の一人が他ならぬ長尾謙一郎であり、「本当の自分とは異なっているパブリックイメージ」とは、長尾の場合、『おしゃれ手帖』という作品のことである。

本来の作者は『PUNK』や『クリームソーダシティ』の様な作品を描きたい人間であって、『おしゃれ手帖』は決して本来の作者ではない。

しかしながら『おしゃれ手帖』で漫画家としての名声の基礎を築いてしまった自分を、その作品の中で「人生の大根役者」と冷笑しながら言及して幕を閉じる、という巨視的な皮肉としてこの最終話は機能している。

おしゃれ手帖』という作品は長尾謙一郎的ではないのかもしれないが、この終わり方はまさしく、長尾謙一郎的ではないか?

<2015-ア−4>『ハウルの動く城』

構造が単純ではなく、主題も何か一つの事柄には絞られていない。愛によって女性は人生をより善くできる…というのが大筋のテーマであろう。ここでいう「女性」を「女性一般」と広くとみるのか、「母親」と限定してみるのか、ここは視聴者によって意見が別れるところであるが、私は「母親」に限定する説をとりたい。

真実として普遍性を有しているかどうかは分からないが、文学作品でよく語られる美しいものに「母性愛」というものがある。 それを大いに賛美した作品である。

あと、

最近、色々な作品を見るにつけ、そう思ってしまうので、偏見であるかもしれないが、この作品には「自分以外の存在に責任を引き受けない人生を歩む」ことへの批判が色濃い。ここは、なんか、宮崎駿らしい。

<2015-ア-3>『今、そこにいる僕』視聴記録

今、そこにいる僕』("Now and Then, Here and There" / 大地 丙太郎 監督 / 岡村 明美 主演 / 倉田 英之 脚本 / 竹内 義和 原作 / AIC 製作 / WOWOW 配給 / 1999年)観てます。

<3話までのあらすじ>

下町にて平和な中学生活を送っていた主人公、松谷修造(通称シュウ)は、ある日町の煙突の上に少女を見つける。そのララ・ルゥと名乗る少女との出会いをきっかけに、シュウは年端もいかぬ少年兵たちが血みどろの闘いを繰り広げる異世界、ヘリウッドへと転送されてしまう。

水を争い近隣諸国と衝突を続けるヘリウッドにとって、水を操る力を持つララは大変重要な存在であったが、ララはヘリウッドへ一切協力しようとはしない。ヘリウッドから逃れようとしていたララをシュウはかばったが、そのせいでシュウは投獄され、拷問を受ける。獄中にて現実世界のアメリカからきた少女、サラと出会う。

 

 

<3話まで観て>

舞台設定に関しての細かい解説は今のところ無い。しかし、それでも主人公たちが異常な状況にいるということは明らかである。

・修造やサラは「視聴者である我々の住む世界」から、「ヘリウッド」へと転送された。

・ヘリウッドにおける兵士には老若いるが、アニメの場面を構成しているのは殆どが幼い子供たちである。戦争における非日常的行為と「幼い」精神の葛藤がアニメ上では描かれているが、仮に兵士たちが大人であってもそう遠くない種類の葛藤が生まれるはずである。

登場人物たちがここまで幼い設定である必要性は今のところ見つかっていない。これからは何故登場人物たちを幼くしたのかに着いても注目する。

・「水」を求め近隣諸国と争うヘリウッド。

・ララは何故日本にいたのか?

<2015-ア-2>『パーフェクトブルー』

パーフェクトブルー』("PERFECT BLUE" / 今 敏 監督 / 岩尾潤子 主演 / 村井さだゆき 脚本 / 竹内 義和 原作 / マッドハウス 製作 / レックスエンタープライズ 配給 / 1998年)観た。

それなりに人気のあったアイドルを脱退し、女優への道を歩み始めた主人公霧越未麻(きりごえ みま)。マネージャーと事務所の社長との議論の末、思わぬ形で進んでいく女優としてのキャリアに悩むうちに、アイドルとしての未麻に偏執するストーカーの存在に気付く。

こうして精神的に余裕がなくなった未麻は、「アイドルであった頃の自分」が「落ちぶれたように見える女優としての自分」を非難し続ける幻覚に悩まされるようになる。

女優として演じる役柄と、現実世界、さらにはアイドルであった頃の自分の幻覚が重なりあい、現実と夢との判別が難しくなる中、自らのアイデンティティを求めて、自身を取り巻く狂気と対峙する。

 

<ここからネタバレあります>

 

 

 

 

 ただただ、悲しい話であった。主人公からしてみれば、決してグッドエンドではないにせよ、映画最後の台詞に示されているように、狂気を乗り越え、アイデンティティの確立に成功したようであるから、まあ、そう悪くない終わりかたである。

 しかし、未麻が経験した悲しみと同等に近いルミの悲壮感に蓋がされているようで、私個人としては、納得のいかない終わりかたであった。私と同じ感想をお持ちになった方は、あのエンディングの爽やかさには、違和感を覚えたはずだ。

 語るまでもないかもしれないが、ルミとストーカーは(ストーリーからしても、あのデザインからしても)親子か、もしくは血のつながりのある人たちだろう。そして、彼女たちは裏で通じており、だからこそストーカーはああも執念深く、詳細に未麻に執着できた。 ストーカーの次に未麻がアイドルであることに拘っていたのはもちろんルミである。最後の怒濤の展開からわかるように、ルミはアイドルとしての未麻と自らを同一視していた。

なぜ、ルミはアイドルと自己を同一視していたのだろうか。

ここからは推量であるが、ストーカーがルミの息子であるとすると、ルミは息子と良好な関係を築くことに失敗したのであろう。ルミは息子に強い愛情を感じていて、慈しみを持って接していた(だからこその詳細な情報提供である)が、息子は何らかのきっかけから、母親を慈しむことはせずに、内に籠るようになり、アイドル未麻に対し偏執(=歪曲してはいながらも強い感情)するようになった。

ルミは、息子から強い感情を向けられるアイドル未麻が羨ましかったのではないか。だからこそ、自らと未麻を同一視したのではないか。

このように妄想すると、未麻が経験した狂気や悲しみと同等のレベルの悲しみをルミもたたえていることになる。

このルミの悲しみに蓋をしているように感じられて、エンディングには若干の違和感を覚えた。

 

のではあるが、ルミについても描ききってしまうと、話が冗長になり、たぶん叙情性も失われ、今敏が目指していたのとは別の方向の作品となってしまうのであろう。

エンターテイメント性の為に登場人物誰かの感情に蓋をするというのは、娯楽映画では、良くできた映画でも、三流の映画でもよくあることだ。

でも、良くできた映画において蓋をされた感情は、豊かな叙情性と共に、想像することが出来る。脚本も、作品も、そのように出来ている。

だから、『パーフェクトブルー』は、非常に良くできた映画であるといえる。

 

おすすめします。

<2015-映-6>『愛、アムール』

<2015-映−6>『愛、アムール』("Amour" / ミヒャエル・ハネケ監督・脚本 / 主演ジャン=ルイ・トランティニャン、エマニュエル・リヴァ / ロングライド(日本)配給 / 2012年)観た。 >>老境を迎えた音楽家夫婦が過ごしていた平穏な日常が、妻アンナに突然訪れた病によって様相を変えていく。日に日に病態が悪化していくアンナであったが、夫ジョルジュは妻と交わした最後の約束、「病院に二度と連れて行かない」ことを堅く守り通そうとする。妻と最後に交わした約束を、何があろうとも、意思の疎通が不可能になってしまった妻に暗雲が近付こうとも、毅然として守り抜くことを愛の証明として最後まで信じきる夫の姿を描く。 /以下ネタバレ含む

 約束を守ることという愛を、妄信した故に妻は命を落とした…と考えることも出来よう。その筋で考えれば、最後にジョルジュがアンナを殺したのは証明を妄信したが故の責任を、負荷に耐え切れず放棄した、ということになる。しかし、映画の最後、何食わぬ顔で再会を果たしたジョルジュとアンナには、悔やみや恨みといったものは感じられず、むしろ生前、平穏に暮らしていた頃の温度を感じさせる。ということは、ジョルジュがアンナを殺し、自らも命を絶った(であろう)ことは決して過ちとしてではなく、むしろ肯定的なこととしてハネケは描いている。

要するに、(私のせいで陳腐な表現になってしまうが)ハネケにとって愛とは生死を超越した価値を持つものなのである。なぜならば、愛を生のみに付与するものではないと考えていなければ、死によって消失するものでないと考えていなければ、あのラストシーンは描けないはずだからだ。