<2015-漫-5>『おしゃれ手帖』(愛蔵版)

<2015-漫-5>『おしゃれ手帖(愛蔵版)』(長尾謙一郎小学館、2011年~2012年)

愛蔵版ではない『おしゃれ手帖』が出版されたのは2001年から2005年にかけて。

 

しばらく記録をつけていない間にもいくつか漫画をよみ、映画をみた。漫画では、長尾謙一郎の『ギャラクシー銀座』『PUNK』『バンさんと彦一』を読んだ。映画ではジブリをいくつか見た。友人に熱心な長尾ファンがいて、彼女が僕に長尾作品を貸してくれた。

ギャラクシー銀座とPUNKは人の内面世界を探求した作品で、やや難解な作品である。何故難解であるかと問われれば、原因の一つとして、全くの不条理でギャグでしかない要素と、人間の内面を丹念に探求している要素が混ぜられて記述されていることを挙げられるかもしれない。人間の内面を追い続ける複雑な筋書きの中に、意味があるのかないのか殆どわからない不条理が山のように差し込んであり、ただでさえ複雑なテーマであるのに、これらの不条理がさらに読解を難しくしている。

不条理要素のせいで主題の筋道が見え難くなっているとともに、それらの要素が無限に解釈の可能性を生成していて、より手のつけられない雰囲気を醸し出している。

とはいえ、長尾作品の不条理は殆どの場合同時にギャグとしても機能している。ここもまた面白い気がするなあ。(ちょっと疲れたので文章の再構成を投げる)

とはいえ、実際の人生も常に不条理とともにあり、不条理の山の中から真理を見つけ出すという過程を有しているとは言える。ひょっとしてこのような人生の構造を意図的に漫画内に準備したのか…? なんて考えてしまうように、不条理によって解釈の幅をほぼ無限大に広げていく、というのが長尾謙一郎の作風ともいえる。

 

本作『おしゃれ手帖』は、下ネタを中心に不条理なギャグが連続で続き、半ば勢い任せに一話を終わらせてしまう、そういった漫画。序盤は下ネタ下ネタ不条理ギャグ下ネタ…という感じで、ギャグのみで構成された高純度ギャグ漫画という趣であるが、後半からオカルト的な描写や風刺的表現、そして長尾節ともいえる精神の内奥について何かしら示唆を与えているような雰囲気の作品が目立つようになる。それぞれについて単行本が出せそうな程個性豊かなキャラクターが集まり、群像劇の形式で話は進んでゆく。

後半になるにつれ各キャラクターの関係は混迷を極め、暴力的表現が増加し、実存的雰囲気を強め、最後には作者自身が自己言及をしているかのような形で幕を閉じる。

破天荒な物語であったにもかかわらず、読後には長く暗いトンネルを抜けたあとのまぶしさ、安心感、開放感のようなものを得られる。

 

この作品は果たして、一人一人のキャラクターを文脈から捉えて、論理的に、構造的に読めるのだろうか? という疑問を抱いてしまう程に、不条理要素が長尾節とも呼べる理知的要素に勝っていて、また、ストーリーの破天荒っぷりも勢い任せに感じられる。PUNKやギャラクシー銀座から作品の主題に対する作者の並々ならぬ熱意を感じ取っていた私としては、どうにも後からそれらしい感じに無理矢理話を形成したのではないかと失礼にも訝ってしまう作品であった。

しかし、最終話で語られるキーワードである「人生の大根役者」という言葉が、愛蔵版でない方の第一巻の表紙にしっかりと記載されていることを考えると、この作品は、全ての主要キャラクターは文脈を用いて効果的に理解することが可能で、全てが意識的に作り込まれた、長尾謙一郎の一大思想地図であるという可能性も捨て切れない。

 

この漫画を貸してくれた熱心な長尾ファンいわく、作者自身もあまり『おしゃれ手帖』という作品を気に入っていないようだ。『PUNK』を理知的に仕上げ、『バンさんと彦一』をすっきりとしたギャグで書き上げた今の長尾謙一郎にとって、『おしゃれ手帖』はギャグ路線でも、精神的な急進主義路線でもない、それらを両立するでもない、どっち付かずな作品として感じられているのかもしれない。

私は、最終話は何となく理解できた気でいる。最終話では、「本当の自分と、自分のパブリックイメージに大きなずれ」を抱えてしまった人間の悲哀と可笑しさを軽妙に描いている。「人生の大根役者」は単なる思わせぶりの言葉ではない。

作品を読んで頂ければわかるが、この最終話は間違いなく長尾自身が自己に言及している。この線では以下の読解が成り立つ。

「本当の自分と、自分のパブリックイメージに大きなずれ」を抱えた人間の一人が他ならぬ長尾謙一郎であり、「本当の自分とは異なっているパブリックイメージ」とは、長尾の場合、『おしゃれ手帖』という作品のことである。

本来の作者は『PUNK』や『クリームソーダシティ』の様な作品を描きたい人間であって、『おしゃれ手帖』は決して本来の作者ではない。

しかしながら『おしゃれ手帖』で漫画家としての名声の基礎を築いてしまった自分を、その作品の中で「人生の大根役者」と冷笑しながら言及して幕を閉じる、という巨視的な皮肉としてこの最終話は機能している。

おしゃれ手帖』という作品は長尾謙一郎的ではないのかもしれないが、この終わり方はまさしく、長尾謙一郎的ではないか?