ギャップ萌えという実感から考えたこと

 ギャップ萌えという実感自体、人を要素の集合体として見ていることの証左であるのかもしれない。「あなたのこの要素とあの要素はステレオタイプ上は大きく 距離があるもので、それゆえ印象的だ」という現象がギャップ萌えの構造なら、要素に付随するステレオタイプのズレによる効果的な予想外さを探り続ける終わりの見えない旅に疲れた人々が、ものさしを反転させステレオタイプど真ん中、何のギャップも無いものを最も新鮮なものとして受け入れる。ただギャップの無いものを褒め讃えるのでは芸が無いし、退行っぽいから、ギャップの無さをあれこれ論理で補強して、メタ視点に立ったゼロギャップみたいなものが生まれた。それはそれで崇高な感じがして良いが、どことなくセコい感じはする。今セコい感じと言ったが、さっきまで僕はそこに可能性を感じていた。でもセコい。

 一方で、人を要素の集合体として見ることそのものに疑問を投げかけて、人を要素で判別できないようにする為にあれやこれやと対策を講じていくと、たぶん作品としてとても難解なものになるか、意味が不明になって、成立しない。とても難解で意味が不明であるというのが人間なんだという確かにそれはそうですけれどもという結論は出るが、作品として読んでて楽しくも悲しくもない、意味が分からないというのは、実験的作品以外では辛い。そもそも、「人を要素の集合体としてみることそのものに疑問を投げかけて」いる時点で、「人を要素の集合体として見ていること」を前提としているので、完全な脱却ではない。頭の体操としては良いし、文化が発展していくということはこういう過程を踏まえてこそなんだと思うけれど。否定が目的であって、脱却が目的ではないので別に良いのかもしれないが、否定が目的でなおかつ意味が分からないというのは少し辛いところがある。

 ここまで書いて思ったのは、やはり漫画(とかアニメ)は話の内容そのものよりも話のディティール(個別具体的な要素)に着目される傾向があるのではないか。

 まあそれはおくにして、「ギャップ萌え」を探り続ける終わりの見えない旅というのは多分最前線ではスーパーハイセンス戦争になっていると思うから、なかなか怖いものがある。でも、終わりが見えないだけで、終わりはある。こういうところに相対主義を持ち込むのは御法度。