<2015-ア-2>『パーフェクトブルー』

パーフェクトブルー』("PERFECT BLUE" / 今 敏 監督 / 岩尾潤子 主演 / 村井さだゆき 脚本 / 竹内 義和 原作 / マッドハウス 製作 / レックスエンタープライズ 配給 / 1998年)観た。

それなりに人気のあったアイドルを脱退し、女優への道を歩み始めた主人公霧越未麻(きりごえ みま)。マネージャーと事務所の社長との議論の末、思わぬ形で進んでいく女優としてのキャリアに悩むうちに、アイドルとしての未麻に偏執するストーカーの存在に気付く。

こうして精神的に余裕がなくなった未麻は、「アイドルであった頃の自分」が「落ちぶれたように見える女優としての自分」を非難し続ける幻覚に悩まされるようになる。

女優として演じる役柄と、現実世界、さらにはアイドルであった頃の自分の幻覚が重なりあい、現実と夢との判別が難しくなる中、自らのアイデンティティを求めて、自身を取り巻く狂気と対峙する。

 

<ここからネタバレあります>

 

 

 

 

 ただただ、悲しい話であった。主人公からしてみれば、決してグッドエンドではないにせよ、映画最後の台詞に示されているように、狂気を乗り越え、アイデンティティの確立に成功したようであるから、まあ、そう悪くない終わりかたである。

 しかし、未麻が経験した悲しみと同等に近いルミの悲壮感に蓋がされているようで、私個人としては、納得のいかない終わりかたであった。私と同じ感想をお持ちになった方は、あのエンディングの爽やかさには、違和感を覚えたはずだ。

 語るまでもないかもしれないが、ルミとストーカーは(ストーリーからしても、あのデザインからしても)親子か、もしくは血のつながりのある人たちだろう。そして、彼女たちは裏で通じており、だからこそストーカーはああも執念深く、詳細に未麻に執着できた。 ストーカーの次に未麻がアイドルであることに拘っていたのはもちろんルミである。最後の怒濤の展開からわかるように、ルミはアイドルとしての未麻と自らを同一視していた。

なぜ、ルミはアイドルと自己を同一視していたのだろうか。

ここからは推量であるが、ストーカーがルミの息子であるとすると、ルミは息子と良好な関係を築くことに失敗したのであろう。ルミは息子に強い愛情を感じていて、慈しみを持って接していた(だからこその詳細な情報提供である)が、息子は何らかのきっかけから、母親を慈しむことはせずに、内に籠るようになり、アイドル未麻に対し偏執(=歪曲してはいながらも強い感情)するようになった。

ルミは、息子から強い感情を向けられるアイドル未麻が羨ましかったのではないか。だからこそ、自らと未麻を同一視したのではないか。

このように妄想すると、未麻が経験した狂気や悲しみと同等のレベルの悲しみをルミもたたえていることになる。

このルミの悲しみに蓋をしているように感じられて、エンディングには若干の違和感を覚えた。

 

のではあるが、ルミについても描ききってしまうと、話が冗長になり、たぶん叙情性も失われ、今敏が目指していたのとは別の方向の作品となってしまうのであろう。

エンターテイメント性の為に登場人物誰かの感情に蓋をするというのは、娯楽映画では、良くできた映画でも、三流の映画でもよくあることだ。

でも、良くできた映画において蓋をされた感情は、豊かな叙情性と共に、想像することが出来る。脚本も、作品も、そのように出来ている。

だから、『パーフェクトブルー』は、非常に良くできた映画であるといえる。

 

おすすめします。